シベリア出兵とは大正期のロシア革命に 〔シベリア・大正時代・政治〕

対する干渉戦争。

1917年11月、ロシア十月革命が起こると、同年12月連合国最高軍事会議に革命政権への干渉計画が出され、翌年1月英仏は日米両国にシベリア出兵を要請してきた。

英仏の提案に対して日米は積極的反応を示さなかったが、この時期外務省では本野一郎外相をはじめ若手官吏、在外公館にシベリア出兵の意見が強く、参謀本部でも上原勇作総長、田中義一次長を中心にシベリア出兵の計画が練られていた。

彼らの意図は、連合国の制約を受けることなく北満、シベリア地域を日本の支配圏に収めようとする自主出兵論であった。

ところがアメリカは日本に警戒的で、日本主導によるシベリアと中東鉄道の支配にあくまで反対であったため、日米対立を恐れた日本支配層の一部は自主出兵論に反対し、臨時外交調査委員会では原敬や牧野伸顕がアメリカとの協調出兵論を主張して、自主出兵論は実現できなかった。

しかし、現実には1918年1月に居留民保護を名目にウラジオストクに巡洋艦2隻を派遣、4月には居留民殺傷事件を名目に海軍陸戦隊を上陸させて、当地の革命勢力に軍事的圧力をかけた。

1918年5月、シベリア鉄道経由で本国へ送還中のチェコスロバキア軍捕虜の反乱事件が起こると、7月にアメリカもチェコ軍救出を名目に日本に共同出兵を提案してきた。

日本政府はただちにこれに応じ、8月2日出兵宣言を発した。

連合国の協定では、日本軍1万2000、アメリカ軍7000、英仏連合軍5800であったが、出兵が始まると日本は協定を無視して、独断で7万2000の大軍を派遣し、バイカル湖以東の各地でソビエト革命に干渉した。

国内世論は『大阪朝日新聞』『東洋経済新報』をはじめ多くの新聞、雑誌が終始シベリア出兵に反対した。

また対外戦争にはつねに熱狂した国民も今回の出兵にはきわめて冷ややかな態度をとった。

こうした国内世論を無視して日本軍はホルバート、セミョーノフらの反革命軍を援助し、東部シベリアを日本の勢力範囲にしようと企て、また西部シベリアのオムスクに成立したコルチャーク政権を支持して、それが全露政権に発展することに期待をかけた。

19年の1月ごろから、シベリア各地のパルチザン活動は活発になり、同年末にはコルチャーク将軍のオムスク政権は崩壊し、干渉軍の戦意も低下した。

他方ソビエト政府は20年初めまでに国内各地の反革命軍の鎮圧に成功し、連合諸国も干渉戦争がむだであることを悟り、派遣軍の引揚げを開始した。
update:2010年02月21日